「これで、長かった私の介護生活も終わりました。」小池さんがとみさんのお通夜の席でそう挨拶した時に、私はドキッとしました。そうだ、そうだった。確か結婚してすぐにだったから、もう三十年近くになるんですものね…
ろくじろうスタッフのナナミからそう言われて、そんな挨拶を自分が数日前にした事さえ忘れていて、そんな自分のささやかな物語を知っていてくれる人がここに居るのだという事が、なんだか嬉しかった。
それは、少し長い旅だったのかもしれない。まだ、本当に終わったのかさえ信じられずに、左右を見廻している自分がいる。自らの意思とは関係なしに、次から次へと続く、身内の看病と、介護と、看取りと、暮らし。
もう少しお金があったなら、笑って過ごせる事もあったろうに。もう少し余裕があったなら、優しく出来た事もあっただろうに。
ギスギスする自分を、何かのせいにして、誰かのせいにして、人に頼る柔らかさもなく、一人でつっぱり通して、意地を噛んで、後悔して…
明日は看取りの話をしに、広島へ呼んでいただいている。
「明日から広島だから、3日したら帰ってくるから、おばぁさん、それまで死なないでね」そう懇願して、母の体を丹念にマッサージし、就寝の介助をし、カキフライを土産に買って来いという母に、今更そんな物を食う元気はあなたにはないから、厳島神社のお守りにしろと脅しをかけて、広島から帰ったら、また我が家へ泊まりに行こうねと約束をし、手をふって慌ただしく母の部屋のふすまを閉めた。
家についてやれやれと思っていると、「おかぁ、すぐに来たほうがいい。多分、今夜だと思う」という、ろくじろうに居る次男からの電話。詰め終えたばかりの広島行のかばんを押しのけて、夫と無言で車を走らせた。
ろくじろうの障子の向こうのいつものベッドで、蝋人形の様な顔色をした母は、もう話す言葉を失っていた。「おばぁさん、オバァさん、楽しかったね。いっぱい喧嘩もしたけど、楽しい日々だったね。」手を握ってそう囁くと、小さく目を開いてウン、ウンと頷く。母娘逆転の様な人生を送って来た、二人だけに通じるテレパシー。
明日の朝、五時にはここを出なければ、羽田発の飛行機に間に合わない。今の母の様子では、その前に旅立つだろうと誰もが思っていた。それでも、母の呼吸を確認しながら夜が明けた。
介護や人の死になど全く関わりを持とうともしなかった長男が、なぜこんな時に広島に行くのかとも聞かずに、明け方の五時に自分と変わるためにやってきてくれた。
「おばぁさん、おばぁさん、飛行機に間に合わなくなるから行ってくるね」と囁くと、瞳を小さく小さく開いて、仕方がない、やっぱり行くのか…というように頷いた。
「おめぇはよう働くなぁ、あんでそんなに働くだぁ、おめぇはえれぇなぁ、おめぇは頑張り屋だなぁ、うれしいよぅ、そんなおめぇを見ることが何よりうれしぃよぅ」
それは、いつも、いつも、一人、病んで布団に置いて行かれる母が、布団から私を褒めてくれる口癖だった。もう、聞くことも出来ない母のそんな言葉を、一人で何度も自分に言い聞かせて、羽田空港へ向かった。
その晩、自分には無理だ、苦手なんだよと言い続け、汚いことから逃げ続けて来た姉が、もう一晩生きていたいと思ったのであろう母の隣に布団を敷いて、生まれ初めて、死に逝く親の寝息を見守った。
広島、尾道、千光寺から見渡す海は、この世のものとは思えなかった。そこはまるで煩悩の世界。これほどまでに澄み渡り、穏やかで、美しい世界があるのかと、息を飲んだ。そして、自分の瞳を透して、今逝こうとしている母が、同じ景色を眺めている事を自分の無意識が観じた。(2016.3/25)