「あの時ばかりは、まいったぁなぁ。夜中の2時だよ。門の外であばれるかぁちゃんを後ろから羽交い締めにして、殺すなら殺せって大声で叫ばれて、
誰ががきっと助けに来てくれるって、誰かに助けに来てほしいって願っても、だぁれも来てくれねぇんだ。近所中に怒鳴り声は響いていたはずなのに…
そこにたまたま車が一台通りかかって、あ、これは声掛けてくれるなって思ったのに、チラッと見て、すうっと行っちゃったんだ。
いつまで、こうやってんのかなぁって、おもったよ…。あの時のばかりは、参ったよ。」
そっかぁ、こうやって、ボケた親をいつか殺してしまうかもと思うようになって何年たったの?そんな時、やっぱりだれかに助けに飛び込んで来てほしいって思うものなんだね…
働いて、働いて、朝から夜中まで働き詰めで生きてきたかぁちゃんがボケて、息子夫婦に怒りをぶつけるようになって、
ひと眠りして起きると、ここが何処だか分からない自分が怖くて腹立たしくて、家族の顔を見つけると、ホッとして怒りに変わるんだ。
たすけてほしくて、助けてほしくて、でも、だれもこの苦しみは分かってくれない。
暴れ出す、親を看る家族の苦しみも、誰も、変わってはくれない。
それでも、息子夫婦は、母を家で看ることからは、逃げなかったんだ。母の止めようのない怒りが収まるまで、自分たちの姿を隠して、牛丼屋で過ごした日々。
かぁちゃん、かぁちゃん、そんなに怒ってはおいねっぺ。
嫁さんがどっかにモノを隠すって、あんでそんなコトばぁり言う?それが親の言うことかぁよ…
歩いて、歩いて、怒って、怒って、よその人にはいい顔を見せるのに、うちのもんには、鬼の形相で…
今思えばそれが病気だったんだけど。その頃はそんな事もわかんねぇったぁなぁ。
そんな苦しみの中、見つかった体の中の腫瘍。「検査をして手術をしても、その事に疲れてしまいまい、2、3年しか生きられない人は沢山いますよ。このまま、何もしない事で、かえって五年くらい寿命があるかもしれません。」そう言ってくれたドクターとの出会い。確かに、わすがな入院生活でも、あんなに勇ましかった春さんは、急に気力を失って行った。
そうやって春さんは一つ一つ降りてゆき、暴れまくる母から逃げた日を、いつの間にか懐かしく語る時がやって来た。
大きな腫瘍が体の中にあるはずなのに、何もしないことを選んだ春さんの体は、とてもきれいだった。どんどん透明感が増し、優しさを全身で表すように笑顔に変わっていった。
春さん、幸せだね。いい人生たったかい?
遠くを見つめながら、春さんがうなずく。
春さん、ベッドを降りて、座敷で寝ようか?家族みんなで。そのほうが淋しくないでしょう?
ラベンダーとオレンジでマッサージした手足が桜色に変わる。仕事を終えて母のもとにやって来た息子さんが、いい匂いだぁなぁと、うれしそうに笑う。
一日中働きつづけた母だ。ろくじろうに通うようになっても、時には泊まってほしくても、泊まる事ができたのは、三年間でたった三日だったと、息子が目を細める。
泊まる事を決めてあっても、どうしても帰ると言ってきかない母を軽トラックで迎えに来るのも、彼の役目だった。
良く、支えましたね。怒りの抑えられなくなったお母さんをこの家で看続ける覚悟、その難儀に比べたら、寝込んだ母の世話も看取りも、淋しさ以外は何でも無いのかもしれない。
ゆっくり、ゆっくり、春さんは降りてゆく。この世との別れを惜しむように、もう少しだけここに居たいと、願っている事がわかる。
きれいに、おだやかに、残してゆく人たちをつなぎとめるように、ゆっくりと…